馬
の杜
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子供の頃、母親が乗馬をしていた事もあり、身近に馬がいた。たまに母についていって馬に乗せてもらったりもしたが、小学校に入学する頃には馬から遠ざかっ
てしまった。その後、両親の離婚や父との死別、相続すべき遺産が父方の祖母に強奪されて借金のみ押し付けられた事による母方の怒りから、遂には父方と絶縁
して名字が変えられてしまうなど、家庭内のごたごたを経て、なぜか馬と共に歩む人生を送りたいと思うようになった。
馬を飼うには広い土地がいる。自分にはお金が無い。日本でそれを叶えられるとすれば、広大な北海道しか頭に浮かばなかった。もともと北海道には憧れがあっ たし、人間らしい生活がおくれるのは都会では無く田舎だと思っていた。そうと決めれば話は早い。ちょうど大学進学を考える時期であり、地元の愛媛の大学で はなく、北海道の大学を受験する事にした。選択の基準は畜産系、農学系の学科がある事と、そして馬術部がある事だった。最終的に自分の理想に一番合致した 帯広畜産大学に進学し、もちろん馬術部に入部した。 大学の馬 術部時代はとても厳しいものだった。毎朝4時に起床し、自転車で厩舎に通った。朝は馬の手入れ、馬房掃除、そして練習、最後に飼いつけ。日中は大学の講議 もあったが、馬の管理費を稼ぐためにバイトをさせられ、まともに講議に出られなかった。バイトはお金がもらえるふつうのバイトは少なく、労働力と引き換え に乾草や敷きワラなどもらっていた。削蹄師の助手やゴミ収集バイト、畑作物の収穫バイトや乾草上げバイトなど、体にきついバイトばかりだったように思う。 疲れた体を引きずって厩舎に戻ってくると、今度は夕作業。馬の世話をして馬房にワラを敷いて馬を入れ、飼いつけをする。休日は無く、毎日こういう生活をし ていたので、帰宅してももちろん何をする気力も無く、御飯も食べずに寝てしまう事もしばしばだった。それでも馬が好きで、馬に乗れるのが嬉しくて、続けて いた。2年生にあがり、レギュラーの座をつかみ、日本馬術連盟B級ライダーの資格を取り、北日本学生馬術選手権のM級C 障害飛越競技で優勝もした。順風満帆に思えたけれど、自分自身限界だった。やりたい事が何一つ出来ない。講議に出て色んな事を勉強したい、北海道という土 地をもっと知りたいという思いにかられ、突発的に馬術部の退部を決意した。それまで熱心に指導してくれた先輩、一緒に切磋琢磨して頑張ってきた同輩、頼っ てくる後輩、そしていつも世話してきた愛馬・・・、そういう人馬の事を思うと辛かったが、今辞めないともう辞められなくなるとも思った。3年生になってし まうと実質的に部を引っ張っていかなければならなくなる。そんな状況下でもし退部するような事になると無責任になってしまうんじゃないかと。人間関係に疲 れたところもあったし。 部を辞めた後は、研究室に入り羊に携わった。羊を 飼いながら、人工授精などの実験を繰り返した。ただ実験自体にはさほど興味は湧かず、むしろ羊の世話そのものが結構楽しかった。毛刈りをしたり丸焼きにし たり、背後を取られて頭突きされたり、子羊を取り上げたり、色んな思い出がある。そんな中、馬術部時代に主に世話をし、乗っていた愛馬が脚をいためて引退 したという噂を聞いた。もともと脚に爆弾を抱えていただけに複雑な思いだった。大学は無事4年間で卒業し、馬術部に在籍していた経験を買われ、根室生産農業協同組合連合会のたった一人の馬産振興係として就職。道東の根室支庁管内、中標津町に辿り着く事になった。 就職の縁で辿り着いた中標津町は、まさに理想的な土地だった。空港があって東京や札幌へ定期便が飛び、根室支庁の経済・交通・物流の要衝として、町政施行 から50年以上人口が減った事が無いという、周辺に大都市のない町村では北海道で唯一人口を増やし続ける珍しい町だ。人口はたかだか2万5千人程度である ものの、デパートがあったり異常な数の飲み屋があったりと活気溢れる市街があり、車で5分も走ればすぐ大規模な牧草地と知床の山並みが広がる、便利で美し い田舎町だ。縁あって市街から車で10分程度の距離にある今の土地を譲ってもらえ、ログハウスを建てて住み始め、厩舎を建てて馬を飼うという夢が実現、と りあえず自分の思い描く「馬の杜」の基盤が出来上がった。いつかは必ず実現すると信じていたけど、中標津に来てからわずか5年、若干27歳でここまで実現 できるなんて思っていなかった。確かに途中で失ったものもたくさんある。離婚もしたし、初代の愛馬が奪われたりもした。でも前 向きな気持ちとひたむきな行動力は全ての壁を打ち砕く。たくさんの人に助けてもらった事に感謝し、ここにお礼を述べたいと思う。 9 年間中標津で過ごした後、馬も増え、手狭になった牧場を広げたいと思うようになり、また、農家になりたいというもう一つの夢を叶えるため、2008年、仕 事を辞め、北海道南西沖に浮かぶ奥尻島へ移住。海の透明度は25mと沖縄並で、水が豊富で稲作や牧畜などの農業も盛んな美しい島だ。ちょうどワイン醸造が スタートするのを控え、私自身醸造にも興味があったことから、奥尻ワイナリーに就職。ワイン醸造に携わりながら、自らも葡萄栽培農家としての独立を目指し ていた。縁あって離農地を借りる事が出来、再び牧場を開設。無事に愛馬達を搬入し、奥尻島でのニムオ ロ馬の杜として新たな出発を切った。順風満帆にみえた奥尻島での生活だったが、人間関係に苦しみ、また、職場の理不尽な理由により私の農家としての独立の 道が絶たれ、ワイン醸造からも外される事になったため、2010年7月14日退職。奥尻島に残る事も考えたものの、離島という条件もあって仕事が無く、生 活が成り立たなくなったため、愛馬と共に中標津に戻ってきた。 2010 年秋、就職活動をしていた中から、縁あって新設されるチーズ工房で働く事となり、再びサラリーマンをやりながら伴侶として馬を飼う生活スタイルに。ところ が半年後の2011年4月、ひょんな出会いから十勝管内上士幌町で新規就農する機会を得て、チーズ工房は退職、愛馬を連れて上士幌町の離農跡地に入った。 酪農と葡萄栽培をやりつつ、軌道に乗るようなら、いつかチーズ工房やワイナリーの設立も目指したいし、馬を飼いたいと思う方の移住の手助けにもなるよう な、馬が交通機関の馬の村を創ってみたいなと思っている。 今までも、馬を身 近に感じてもらうと共に、馬への理解を深め、そして馬と共にある田舎暮らしの魅力を伝えるため、乗馬やホームステイを無償で受け入れてきました(滞在の希望があれ ばメールを下さいませ)。今後も継続して受け入れていくつもりですが、いずれ徒歩宿のような形態に移行できればとも考えています。今まで我が家に滞在してくれた方を中心に、仲間組織である金太郎会を運営しています。こういった仲間の輪が広がると共に、ポーレやレザンといった自家生産馬の成長も楽しみです。 最後に一言。夢は必ず実現します! |
<土地を手に入れる> |
土地探し 2000年2月〜 |
土地を所得! 2000年11月14日 |
<ログハウスを建てる> |
施行業者の選定 1997年11月〜 |
プラン決定とローン申し込み 2000年10〜12月 |
整地 2001年3月19〜22日 |
基礎工事その1 2001年3月23〜28日 |
基礎工事その2(地鎮祭) 2001年3月29日〜4月4日 |
ログ部材到着 2001年4月9日 |
木工事その1 2001年4月10日 |
木工事その2 2001年4月11日 |
木工事その3 2001年4月12〜16日 |
木工事その4 2001年4月17〜20日 |
外装・内装 2001年4月21〜22日 |
建前(上棟式) 2001年5月1日 |
引っ越しに向けて・・・ 2001年5月2日〜6月17日 |
<そして「馬の杜」へ・・・> |
炉台作り 2001年6月21日〜8月5日 |
隣地買い足しと整地 2001年9月5日〜11 月16日 |
厩舎建設と牧柵作り 2002年7〜10月 |
馬の導入 2002年10〜2月、2003年9 月3日〜 |
金太郎会設立(ホームステイや乗馬受入開始) 2004年〜 |
初の子馬誕生!!! 2005年5月25日 |
<奥尻島への移住・移転> |
奥 尻島への旅と移住への決意 2007年8月・9月 |
奥 尻島への移住と葡萄栽培 2008年5月22日〜 |
中 標津牧場にて子馬誕生! 2008年6月19日 |
奥 尻ワイン工場落成式とワイン醸造 2008年10月10日 |
奥 尻島にて牧場開設と愛馬搬入 2008年10月13日 |
奥 尻ワイン初醸造と椎間板ヘルニア 2008年9月〜2009年7月 |
自 分の葡萄畑作り 2009年2月15日〜 |
miku さんとの出会いと奥尻島移住 2009年3月〜2010年3月 |
ラ グドール(猫)のエノコロ登場 2009年11月6日〜 |
レ ザンの馴致・調教・騎乗 2009年11月7日〜 |
奥 尻ワイナリー退職・婚約破棄の果てに・・・ 2008年10月2日〜2010年7月14日 |
愛馬を連れて十勝・上士幌へ新規就農! 2011年4月27日〜 |